2013/01/04

2 なぜに徒然草読める・読めない

「つれづれ」の音に対し、漢字「徒然」がすぐに書けましたが、不思議さは否めませんね。使いもしない、肝心の本を読めもできないものをどうして書けたのでしょうか。また、「徒然」を「つれづれ」とどうして読めるのでしょうね。まぁ、かつて学校で習ったことがあると言えばそれまででしょうが、学校で習ったことのほとんどは忘れてしまっているのに。一度覚えた「泳ぎ」がずっと忘れないようなものなのでしょうか。

 読めた、書けたがどの程度意味をなすのかに対し、逆に読めない、書けないのはどうなのでしょうか。近年、大学生の「学力低下」が叫ばれていますように「読めない」「書けない」をここに帰結させてお終いにできるとは思えません。「徒然」を読めて書けた私も、先輩たちに比較すれば、はるかに漢字を知りません。また、その先輩たちでさえ先代に比較すれば読み書く漢字は相当減っているものです。

 文芸評論家の斉藤美奈子さんは「踏襲を『ふしゅう』と読んだ首相の日本語力。バカバカしいようで、じつは興味深い問題かもしれない。日本に生れ日本語で生活し、60年以上がすぎても、踏襲を『とうしゅう』と読めない人は読めないのだ。日本語を話すのと読み書きするのとは別の能力だからである。」と2008年の批評と題する新聞コラム<文芸時評>(朝日新聞2008年11月26日)に書かれていました。
麻生さんの漢字読めない事件と漫画好きとが妙に結びつけられたりしないか心配していましたら、案の定、山藤章二さんのブラックアングル(週刊朝日の最終頁にあります。この週刊誌を後ろから読ませる頁との噂あり。)で遊ばれてしまいました。2009年最初の号で百人一首の風情で。
「これはそのぉ ふしゅうと読んじゃ まちがいか 知るも知らぬも 漫画のせいだ」
(これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき)

 神戸女子学院大の内田先生は学生のレポートにあった「精心」の誤字にショックをうけました。そして、その後に「無純」に出会ってもっと大きなショックを受けたそうです。なぜなら、その学生さんは「無純」と書いた「むじゅん」を「矛盾」という正しい意味で使っていたからです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。内田さんの分析は、さえています(内田樹「下流志向」2007年講談社)。
多少の誤字なら誰にでもある。例として「顰蹙」をあげる。しかし、「矛盾」は日常いたるところで目にしているはず、なのに「むじゅん」と読まずに飛ばしてきたのか。「顰蹙」を正確に書けない程度のものとは異なる。すると、「矛盾」を「むじゅん」と読めなくとも書けなくとも平気で20年近く生きてきた学生は、その文字を読み飛ばしているからだ。つまりスキップしたわけだ。

しかし、人間というものは、そうしたわからないものを内在させ、維持し、時間をかけて噛み砕くはずなのに、そうした学生は、わからないものがあったとしても、気にならずに済ませることができるのではないか。さらに、やがてそうしたわからないものは、「存在しない」ことにしているのではないか。
 よく意味がわからないものがあっても特段不安や不快を感じることなく生きていられる。学びを何かと「等価交換」しようとしているのではないか。学ぶに値するか否かは自分が決定権をもっているかのごとく、自分の物差しだけで世の全てを測ろうとする。この判定の有用性は誰が担保するか。それは「未来の自分」だ。
 こうして「学びからの逃走」が始まった。捨て値で未来を売り払う子どもたちの大量発生を生み出している。

 いかがですか。内田さんのされた誤字体験は私にも日常的にあります。専問、講議、等々。その都度訂正してゆきますが、肝心の本人には届いていないなぁの実感があります。目の前で点数化されないことや「習っていないから」というエースを持っているからでしょうか。それが集団化されますと自覚もされず、もはや敵なしとなってしまいます。

 最後に「鬼籍」のはなし。ある若い女性が鬼籍に入ったとの報を受けて、年配者のグループは「おかわいそうに。」と、若い層も「おかわいそうに。」との同じ反応。若い層に聞けば、だってあの娘はあんな怖い姑のいる家に嫁いだんだから。そうか、鬼籍とは、「鬼婆のいる家の籍に入る」と捉えていたんだ。