2013/01/12

3 「漢字の森深く」から

 私は漢字が好きである。お習字(書道ではなく)を長くやっていたからであろうか。「漢字の森深く」と題する連載(朝日新聞夕刊2009年11月25日?12月8日)があった。ニッポン人・脈・記シリーズの一つである。大変興味深い内容であった。簡単に紹介したい。

 画数のやたら多い漢字がある。例えば、「憂鬱」の「鬱」だ。ほとんど使わないものもある。「塩」の旧字体である「鹽」をあえて使う人がいる。理科ノートには「實驗」と書くという。実験ではなしに。「飯盒炊爨」だとおいしく感じるかもしれない。漢検1級に、しかも満点に挑み続ける人たちだ。

 漢字は東洋人だけのものではない。
ハンガリー生まれのピーター・フランクルは大道芸人でもあり数学者だ。12ヶ国語をあやつるも漢字と出会い、驚愕する。1982年初来日し、88年からは日本で暮らす。日本名「富蘭平太」を名乗る。「漢字は日本が誇るべき無形文化財なんです。」
1987年、フランクルは大道芸人の若者と出会う。トニー・ラズロ(アメリカ)だ。そう、彼こそ「ダーリンは外国人」の登場人物。妻よりはるかに漢字に詳しい。妻は小栗左多里。作者である。
そのラズロが尊敬するのはハルペン・ジャック(イスラエル)。14ヶ国語がわかる。「春遍雀來」と書く。妻ミハルは、美晴。長男バラキは、薔薇樹。長女ケレンは、花蓮。家族の名を織りこんだ漢詩まで詠む。

春遍く 雀來たらば
春遍く 美しく晴るる
春遍く 薔薇の樹咲かば
春遍く 蓮の花近し

詩人 三好達治はうたう。「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。」

書家 國重友美が「海」をくずすと「Sea」が見える。「英漢字」の誕生だ。そして、自身裸となり、薄い墨と顔料を塗って大きな紙にペタリ。男性版もと夫がペタリ。夫とは西村和彦、そう俳優だ。

書家 神田仁巳は「かんち人文字」を生んだ。漢字の中に顔がある。難病「多発性硬化症」の患者である。自身の病気と他の患者さんたちの完治を願い、命名した。

点字は1文字が1ます六つの点からなる。仮名やアルファベットが表せる。川上泰一は漢点字を考案した。1970年のことだ。川上は、1949年に農学校と聞いて行ってみた。しかし、盲学校だった。視覚障がい者の教育とは無縁の世界から来て、川上漢点字を完成させた。この漢点字との出会いを、鍼灸師岡田はこう表現する。「すべてが白黒から極彩色に変わったよう。」

「道」には「首」がある。なぜか。古代中国でよその氏族の土地を行く時にその首をはね、呪いの力によって邪霊を祓い清めたことに基づくという。中国文学者 白川 静は、甲骨文字や金文の意味や由来を解き明かし、漢字の成り立ちから古代を蘇らせた。

「障害者ではなく、障碍者と書けるようにしてほしい」豊田徳治の願いである。「害のある人と誤解されかねない」からだ。常用漢字表に「碍」はない。30数年前の韓国駐在時代に取引先から「韓国では障碍者と書く。日本ではなぜ害なのか」と問われ、答えられなかった記憶がある。息子が統合失調症となって初めて向き合った。

あなたの「しんにゅう((しんにょう)とも言う)」は、1点派それとも2点派?敗戦直後までの活字は2点だった。1949年、当用漢字の字体を決めた時、簡略化して1点に。が、常用漢字でないものは2点のまま使われた。そこにパソコンが加わる。パソコンならどちらでもすぐに出てくる。

漢字なんてやめてしまえ、と漢字廃止論は根強い。民族学者 梅棹忠夫は、戦中、中国から電報を打った。漢字を1字ずつ4桁の数字に変換して打電、受信側はその逆を行った。その煩雑さに「こんな文字と心中するのはまっぴらや」と思った。繁雑な漢字の体系が文化や教育の発展、情報の伝達を妨げていると考えた梅棹はローマ字運動に取り組む。

文章心理学者 安本美典は1963年に「漢字の将来」の中で「22世紀末には漢字は滅亡するであろう」と予測した。作家100人の小説100編を分析していたら使用されている漢字の数が時代とともに減っていた、からだ。20世紀初めの作品では39%だったものが、半ばの作品となると27%となっていた。
 このシリーズの最後は次の一文で結ばれる。
「一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。」