2013/03/22

9 一人勝ちの思想 (後篇)

 時の人、江上 剛、日本振興銀行取締役兼代表執行役社長(取締役会議長を併せて兼務、本名は小畠晴喜)が朝日新聞に連載している「街かど経済散歩」(2007年2月14日付)に以下のようなことが紹介されている。「紀文」の社史からだ。

 1968年の冬のことである。紀文の正月用の蒲鉾はじめ各種練り製品の製造を終えた段階でその中に含まれる人工甘味料が翌年からその使用が禁止されることとなった。その人工甘味料とはチクロのことである。発がん性の危険が指摘されたからだ。したがって、この冬に製作したものは法律上販売可能ということになる。
 今やチクロにはそうした危険はない。だが、発がん性が疑われた時、その使用が禁止される時期以前の製品だからと言って、一般大衆は購入するだろうか。危険性とは、法律の問題以前である。

 紀文はどうしたか。先代社長はチクロを含むすべての製品の廃棄を命じた。だが時期が悪い。時間もないところでの廃棄は正月商戦の敗北を意味し、紀文の社運をも落としかねない。社員の「会社のため」そして「自分の生活のため」の論理は同調を得やすい。
 先代社長は頑として応じなかった。その理由は、たとえ法律上は許されても、消費者の期待を裏切ることになるからだ、という。ここにも自分の会社さえよければという「一人勝ちの思想」を超えた思想がある。
 もし1969年の正月にチクロ入り製品を出していたら、今の紀文はないであろう。

 思い出してみよう。雪印乳業が、不二家が、そしてミートホープが、食品偽装・不正を行っていたことを。「白い恋人たち」をしばらくは北海道土産にできなくなった。船場吉兆は廃業に追い込まれた。
 もっとも明治のころの書物「食道楽」(村井弦斎著、1903年刊)にも食品偽装が登場してくる。日本酒に防腐剤としてサルチル酸を入れるとか、純粋バターと称して植物油や豚の脂を混ぜる、などである。いつの時代も人間のやることは変わりない、と嘆く前に、「一人勝ちの思想」を超えた思想に思いをすべき時が来ているのではないか。

 人はどう生きるのか。「一人勝ちの思想」によるのか、それとも違う思想によるのか。
 営利組織である「会社」はどのように社会において活動をするのか。
 自分(自社)だけの都合で、より大きな地域とか、ひいては地球規模でのことを考えずに活動することが「一人勝ちの思想」である。それがもたらす弊害が大きくなってきた現在、「一人勝ちの思想」の克服が大きな課題と言えよう。

 「一人勝ちの思想」を超える事件があった。「美談」という枠組みで捉えてはいけない。
 アメリカのプロ野球(「大リーグ」とは1軍とそれ以下との相対の中の意味のはずが、世界の野球における位置づけに取って代わっている。「ワールドシリーズ」なる言葉に代表されるように。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本が2連覇を達成している。)で本年6月2日、タイガースの投手ガララーガが26人までただの一人も走者を出さなかったのである。そう、完全試合まであと一人だ。そして、最後の打者も1塁ゴロで打ち取った、はずであった。1塁手からベースカバーに入ったガララーガへボールが投げられた。捕ったガララーガも、打者さえもがアウトを確信した時、1塁塁審の判定はセーフだった。ここに完全試合が泡のごとく消え去った。
 監督が抗議をしても判定は覆ることはなかった。それはそれで正義だとは思う。
 試合後、リプレーを見た1塁塁審は誤審を認めた。そして、完全試合を台無しにしたことが分かった。誤審を謝罪もした。
 投手ガララーガはどうしたか。翌日の試合前のメンバー交換時にかの審判員に歩み寄り、握手を交わしたのだった。ガララーガは言った。「完全な人間はいないから。」と。
 審判員の涙は止まらなかった。
 記録好きのアメリカプロ野球において完全試合がどれほど高い評価を得るか。ワールドシリーズにおいてただの1回しか完全試合は達成されていないのだが、それを成し遂げた投手は、この記録以外投手としての成績は凡庸にもかかわらずアメリカスポーツ史上の記憶に残る偉大なそれとして上位にランクされている。
 アメリカのメディアは判定を覆し、完全試合達成と認めるべきだ、とか、ホワイトハウスの報道官までが完全試合の認定をとコメントする始末である。
 それほどのものでさえ、ガララーガは審判員を庇ったのである。しかも翌日に。
 「一人勝ちの思想」を超えた思想がここにもあると思う。自分の記録だけに固執したなら、あるいは、27人目の走者がイチローのような俊足ランナーであって1塁塁審が誤診でセーフにしたなら、つまり疑惑付きの完全試合であったなら、ガララーガには生涯消えない汚点となろう。