2013/04/29

10 メクラウナギ改めホソヌタウナギと申します(後篇)

そこで首題に移ろう。人間が命名した動植物には、その形状、動作等からヒトのそれに類した差別的な表現に基づく命名のものが案外と多く、昔からそう言われてきたために逆に意識外に置かれてきてしまったのかもしれない。
具体的に例を見てみると、日本魚類学会は標準和名として問題と思われる32種(約3900種中)について検討し、「メクラウナギ」を「ホソヌタウナギ」に、「オシザメ」を「チヒロザメ」に、「バカジャコ」を「リュウキュウキビナゴ」に、「セムシイタチウオ」を「セダカイタチウオ」に、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」に、「ミツクチゲンゲ」を「ウサゲンゲ」に、「アシナシゲンゲ」を「ヤワラゲンゲ」に、「テナシハダカ」を「ヒレナシトンガリハダカ」に、「セッパリホウボウ」を「ツマリホウボウ」に言い換えるという。

昆虫についても同様のことが言える。害虫の「メクラカメムシ」を「カスミカメムシ」にという具合にである。

 名前は大切である。だからこそ命名する側は想像力を豊かにして、前述のように「目明き」が勝手に「盲」を想像するかのごとく、当事者を排した思考に基づかないようにする必要がある。

 政権が移った先の衆院選でも、当選者が行う、かつては勝利の象徴的行為でもあった「ダルマの目入れ」が行われなくなったようである。少なくともテレビ報道では一切なされなかった。
 かつて視覚障害者団体が「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識を育てることにつながりかねない」との要請を行ったからだという。

 乙武洋匡さんは、言う。だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。手足のない僕が、「手を焼く」や「足並みをそろえる」を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差ないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。
だが、視覚障害者団体の要請を「考えすぎ」と頭ごなしに否定するのではない。乙武さんは自身の障害を「ただの特徴」と思ってはいても、そういう障害者ばかりではないことも知り尽くしている。「それしきのこと」と感じることに対して、敏感に反応してしまう、のである。乙武さんは、「いやだ」と言う人に「そんなの気にしすぎだ」と言うのは簡単。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点を忘れずにいたい、と言う。

 「言葉狩り」として、筒井康隆は断筆したことがある。無闇矢鱈に表現を禁じたからであった。差別表現は当然使用してはいけない。差別意識なく、類似表現を用いることも同様だ。
 ここで市野川容孝の差別語に関する論考を紹介しよう。
 差別語によって名指しされた人々を傷つけるような言葉を用いるべきでなく、そう名指しされた当事者が、そう名指しされることを拒否している場合には、絶対にそうである。自分たちをどう名指すか、また、他人に自分たちをどう名指させるかに関する権利、「自己定義権」をマイノリティから奪ってはならない、と。

 生き物をどう命名するか、差別語からの発想で命名することは、市野川の論考と同様、鏡の反射であろう。名前に、命名に、ことばに鈍感であってはならない。敏感ではありたい。